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(旧旧)吹上隧道(明治隧道)
東側の坑口へ続く道は、旧隧道への分岐に比べかなり手前から分岐します(バス停のポールが目印です。分岐点のストリートビュー)。
道幅は狭く車のすれ違いやUターンが非常に困難で、隧道の手前には民家もあるため、車両での進入は止めるべきです。車を止められる場所から歩くかバスを利用しましょう。また迷惑にならぬよう、静かに見学させていただきましょう。
隧道手前の民家(くれぐれも迷惑をかけないようにしましょう)を過ぎると、道の舗装が無くなり、まもなくブロックを積んだ車止め柵が現れます。この先は道の凹凸が激しく、オフロードバイクでも走行は困難だと思います(繰り返しますが車両での進入は止めましょう)。
注意しながら歩いて進んでいくと、荒れ果てた廃屋と旧旧隧道坑口が立て続けに現れます。この廃屋は心霊スポットなどと噂されているようですが信憑性に乏しく、廃屋も廃れた道でよく見る程度のものです。友人はそちらを観察していましたが、私はスルーして隧道へ向かいました。
旧旧吹上隧道(明治隧道)東側坑口です。東京都初の道路トンネルに相応しい立派な装飾の煉瓦坑門と左側の石垣を確認できますが、よく見ると坑門の中央辺りに大きな亀裂があり、また右の翼壁か石垣があったと思われる場所が土砂災害でごっそり消滅したと思われる痕跡があったりして、全体的にかなり傷んでいることが分かります。
幅や高さは伊世賀美隧道に似ていますが、こちらのほうがやや狭い気がします。ここまでの道のりがちょうど軽トラ幅くらいで緩やかな勾配の道であったことなどから、この隧道もおそらく馬車道規格というやつでしょう。明治時代の竣工だそうなので、当時の通行は自動車ではなく歩行者や荷車がメインだったのだと思います。
ネット上の情報によると、2009年に坑門の一部が開削され、鉄板や鉄筋を用いた強固な封鎖を含む改修が施されたそうです。
この坑口写真はいかなる復元を経ても二度と見ることが叶わない、思い出の景色となりました。
この隧道は中がちょっと面白い造りをしていて、東側坑口→煉瓦の内壁→でこぼこの素堀り→コンクリートブロック?の内壁→煉瓦とコンクリートの混合?→煉瓦→コンクリートブロック?→煉瓦とコンクリートの混合→西側坑口と、内部の様子が次々と変化します。
湧水が激しく、東側にはかなり大きな水たまりもできていることから察するに、傷んだ部分を繰り返し補修した結果なのではないかと推測します。
旧旧吹上隧道(明治隧道) 内部の写真
各画像をクリックするとフルサイズが表示されます。
西側坑口はおそらく東側坑口と同じ意匠だったと思うのですが傷みがひどく、大きな亀裂が坑門より内部全体へ広がっており、坑門の上半分が隧道の外側へ若干移動して煉瓦が崩れているように見えます。
坑門上部の山肌が地滑りを起こす可能性も考えられ、地震や大雨などでトンネルが不通になってしまう日も、そう遠くはないのかもしれません。
西側坑口から先の旧道は(旧)吹上隧道(昭和隧道)の道へ繋がっていますが、途中に路面が大きく崩れている場所があったり、足元の草の中に落石防止用ネットを吊るワイヤーが張られていたりして、車輌はもちろん歩いていくのもかなり危険です。
一度無理して歩いたことがありますが、二度歩く気は起こりませんでした(^^;
旧旧吹上隧道(明治隧道) その他の写真
各画像をクリックするとフルサイズが表示されます。
なぜ3世代のトンネルが?
同一の道路に対して3世代ものトンネルが存在する峠は全国でも余り多くないと思いますが、吹上峠に東京都初の道路トンネルが開通し、現時点で3世代のトンネルを通すほどまでに重要視されている理由は「成木で産出される石灰石」なのだそうです。
石灰は古くは建材に使われる漆喰の材料として、現在はセメントの材料として需要があります。江戸時代、江戸城等の建物に大量の漆喰を使用するため、江戸(東京)近辺で主要な石灰石の産地である成木と、江戸時代に石灰石の加工場があった青梅の間で、吹上峠を含む成木街道が開発されたそうです(青梅街道も石灰の運搬のために作られたそうです!)。
石灰石という重い荷物を大量に運ぶ必要がある成木街道において、最大級の難所である吹上峠に3度もトンネルが掘られたのは合点がいく内容で、トンネルを見ただけでは分からない歴史の勉強になりました。
2001-11-23 | : | 訪問 |
2001-11-26 | : | 掲載 |
2021-09-21 | : | リニューアルに伴い加筆修正, 写真の追加 |